明治末期から大正へ
第一次・落語研究会は、本格的な実力者や人気者を生みだすきっかけになりました。その中でも、三代目蝶花楼馬楽と、初代柳家古せんは、多くの文人に愛された落語家でした。この二人は、晩年を病と闘うことになります。馬楽の方は、弟子をとらなかったために、晩年は噺家仲間に支えられて暮らしていました。初代柳家古せんは、実力があったにもかかわらず、私生活において苦難がありました。吉原通いが災いして、梅毒にかかり、歩けなくなってしまいました。しかし、噺家としての稽古は続いており、月謝を払って習っていた門下生が多い噺家でした。
東京落語界結成
第二次世界大戦をはさみ、東京の落語の世界も変遷を遂げます。大正六年には、東京寄席演芸株式会社を設立されましたが、一部の有力芸人とその一門だけが優遇されると反発した五代目柳亭左楽らが、三遊柳連睦会を結成しました。何度も集合離散が繰り返され、戦後に「東京落語界」「日本芸術協会」という二つの団体に統合されました。