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東京落語の変遷

明治時代の派手な噺スタイルを嫌った初代三遊亭圓左が、「本格派の噺家がきちんと話せる場所が欲しい」という中で、落語を速記で出来る方が集まって、第一次・落語研究会が出来ました。この会ができたきっかけが、一定の時間に沢山の高座を入れる番組があり、お客様が離れていったことがあげられます。時間制限の中で芸をするのは、中身を荒くしてしまったからです。この研究会が開かれた時には、きちんとした芸をしたので、お客様が芸を最後まで堪能できました。そこで、様々な出来事があっても東京落語の質が上がっていきました。

大阪ではどうだったのか

東京落語が質を上げて行く中で、上方でもある大阪で噺をするのは渡りに船だったようです。当時の日露戦争で、東京落語が不況になるにつれて、大阪で噺をすることで、同じ演目が東京と大阪の二つがあったとされます。そこで、「反対派」が生まれて、落語中心の興行を止めて、現在の漫才の原点ともなる芸が発生しました。大衆には受け入れられたようです。