吉本興業の原点
明治末の上方落語は、「反対派」が多く、民衆はじっくり聞かせる落語の噺よりも、目を引く演出や芸に派手さがあった方が良いとされています。そのために、上方落語の質が落ちてしまいましたが、その前に浪花三友派の最後の頭取・四代目笑福亭松鶴や、爆笑落語の初代桂枝雀、二代目桂文之介らが雀会を作ったりしましたが、興行形態は吉本興業に一体にするところから始まります。吉本興業は、漫才を含めたいろいろな色ものが多かったとされており、今の吉本興業の母体にもなりました。
今では当たり前の月給制
当時、吉本興業に所属している芸人たちには、月給制というシステムに慣れなかったようです。「月給制?いつ貰えるのか分からないものは困る」という声があがり、抵抗が多かったようですが、大正時代に入ると、大阪のめぼしい寄席と芸人が吉本興業に吸収されて、月給制に落ち着いたエピソードがあります。現在では当然のシステムでも、昔は日銭を稼ぐ方が良かった時代です。